枕元の呼び鈴を鳴らしても鳴らしても、いつまで待ってもティキは来ない。

 はベッドの中で溜め息をついた。水を頼もうと思ったのに。
 主人の私が眠れずにいるのに、どうせもう先に寝ているのだろうあの男は。
 執事だなんて名ばかり。あいつの仕事ぶりときたら万事この調子だ。
 何事もおざなり。許されるギリギリまでいい加減。叱りつけると年若いを逆にたしなめるように苦笑いして返す。

 自慢できるのは端整な顔立ちくらいのものだ。
 もとはと言えば素性も知れない流れ者のくせに、手足も長いあの男は妙に衣装栄えがして、パーティの供には重宝した。
 それと声。
  『はいよ、お嬢さんお手をどーぞ』
 ろくな言葉遣いもわきまえないのに、その甘い声を聞くだけでどんな娘もティキに恋した。
 に向けられる羨望の眼差しがどれだけ心地良かったことか。
 …今となってはそんな美点も活かせる機会がないけれど。

 は仕方なく身を起こし、軋むベッドの上を這った。何歩もにじらなければ降りられない、大きさだけは立派な寝台だ。
 緩くまとめただけの栗色の巻き毛が、這いずるたびに頬に落ちた。

 喉などそれほど渇いてはいなかったけれど、ティキを叩き起こして嫌味のひとつも言ってやりたい。
 窓辺から射す星明かりだけを頼りに、は暗い廊下をティキの部屋へ向かった。






 扉は薄く開いていた。
 細長く四角に灯りが漏れて、そこから人の声がする。けたたましく笑う品のない女の声。
 街で買った女を連れ込んでいるのだと察し、は顔を赤らめ立ち止まった。

 しかし躊躇したのはほんの一瞬、すぐに背筋を真っ直ぐに伸ばす。
 使用人の不品行はその場ですぐに正さなければ。幼稚とも言える潔癖さが、すくんだ足を励ました。
 ティキの他には使用人の一人とていない、今や誰にも顧みられることのない、うち捨てられた屋敷とはいえ。
 ここは名門家で、にはその当主としての責任があるのだ。



「ねえ!上二つ閉まらないわ、ボタン!お嬢様ったらずいぶん貧相なお体でいらっしゃるのねぇ!」
 女の言葉に再びの足は止まった。
 キャハハと甲高い馬鹿笑い。何かおかしな薬でもやっているのかもしれない。
 そんな女がどうして私の話をするのか、得体が知れない。

 はおそるおそる扉に寄り添った。
 毛足の長い絨毯は、の足音を気配ごときれいに吸い込んでくれる。
 息をひそめて他人の部屋を覗いている、自分の浅ましい姿を思うと心臓が跳ねた。



 ドアに背を向けティキが立ち、その向こうに居る小柄な女にどうやら着替えをさせている。
 ティキはゆったりと腕組みをして、女を急かすこともなく、かといって手伝いもせず、ただ待っていた。
「どう?これでいいの?」
 ティキの指図で女が後ろを向いた。スカートのすそをふわりと広げ。

 それはの、最も大切な一着だった。
 背中にずらりと細工物のボタンがついた、黒いベルベットのワンピース。
 許されるなら毎日だって着たいほどの、の一番お気に入りの服を。
 こともあろうにティキはそれを、商売女に着せていた。

 けれどもそれを怒ることも忘れ、は呆然と女の後姿に見入った。

 女はと同じ、腰まで伸びた美しい栗色の髪をしていた。
 の宝石箱から持ち出したらしいカメオの髪飾りまでつけている。
 背格好も同じ、服も同じ、髪も同じ、髪留めも。
 まるで鏡でも見るような。いや。

 の目には、そこへ自分が立っているようにしか見えなかった。




 ティキがあの声で名前を呼んだ。聞き慣れているはずのが、思わず息をのんだ。
 長い両腕が後ろから女を抱きすくめる。何度も何度も名を呼びながら。
 その腕の温もりを、は実際に肌で感じた。

 ティキがをベッドへ運ぶ。うつ伏せに寝かせ、背中を流れる栗色の髪にうやうやしく口づける。
 背後から差し入れられた手がスカートの中でうごめくと、途端にあられもない嬌声がの耳を刺した。

 背筋が痺れ、鳥肌がたった。
 嫌悪感なのだと思おうとした。この男は主人の私を見ては、こうして劣情を催していたのだ。気持ちの悪い。
 それなのに抱かれる女から、ティキに抱かれる自分から、いつまでも目が離せなかった。

 やがて身体の中心で、何かが熱く澱みはじめる。重苦しい塊が胸の奥底で鈍い痛みを訴える。
 疼くのは胸でなく下腹部だと気付き、の白い頬に朱が差した。

 夜着の襟元をどれだけ強く握っても、絶え間なく漏れる荒い息をこらえることができなくなった。
 病気で熱の出た時のように、頭が揺れてぼうっとする。とろりと熱く、目が霞む。
 蕩ける視界に、ティキに愛される自分がいる。

「さあ、お嬢様」
 優しく耳元に囁かれた。初めて聞くティキの丁寧な口。

「どのようにご奉仕申し上げましょう?」





 はとうとう立ってもいられなくなった。










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