アイリッシュ ミスト、テディベア、ロイヤル ハイネス、ロゼネルフ、ピエール ドゥ ロンサール


テラスの向こう側に広がる庭園に所狭しと植えられた薔薇達の名前を、まるで歌うように口ずさむ。
一斉に開花の時期を迎え、美しさを競い合うように咲き誇る様子は何だか恐ろしくもある。
独特の、群れた香りが視界と嗅覚を占領して、少しばかり息苦しい。


ビル ウォーリナー、プチ トリアノン、キャメロット、レ シューリン、 オーギュスト シーバウアー


好く手入れされた艶のある花弁を遠目にゆっくりと愛でながら、順繰りに名前を呼ぶ。
こうも大量に咲いているのは閉口するが、本来 薔薇の花も匂いも嫌いではない。


ソニア、リトル マーベル、トラディスカント、ボニカ…


庭の端から辿っていた彼女の視線が、とあるひとところで ぴたり と留まった。


「冬獅郎」


ゆっくりゆっくり、殊更感情を込めて声にする。
溢れかえる薔薇の木の間で棘の剪定をしていた日番谷は、彼の名を呼ぶ声に耳聡く顔を上げた。
テラスの奥、開け放たれた両開き扉の向こうのソファで気だるく横になるを振り返り、そっと眉を顰める。


「今、呼びましたか?」


少し声を張って尋ねながら視線を交えると、それまでまどろんでいた彼女の瞳が、途端に不機嫌になる。
呼ばれて顔を上げた時の彼のぼんやりした表情を見れば、手入れに夢中になっていた事は一目瞭然だ。
専属執事のくせに呼んでもすぐ来ないなんて許せない。


「そう思うんだったら、確かめる前に来なさいよ」


ソファに横たえた半身を起こし、肘掛へと頬杖をつき 低い声を出す。
日番谷は寸でのところで吐き出しそうになる溜息を堪え、まだ剪定していない棘の先がシャツに引っかからないように器用に避けながら屋敷の方へと移動を始めた。
彼女の側に近寄り「何か御用ですか?」と、控えめに尋ねる。

彼が近付いた途端に鼻腔に広がる様々な薔薇の香りには一層不機嫌そうに眉根を寄せた。


「その前にごめんなさいは?」
「……申し訳ありませんでした」


瞑目すると共に手短に詫びると、元から喜怒哀楽の激しい彼女は機嫌を良くしたようで「よろしい、」などとおどけて言って微笑んだ。
その様子に溜息混じりの苦笑を零し、小振りの剪定鋏を手近なサイドテーブルの上に置く。
何はともあれ、機嫌が直ったようなのでひと安心だ。


「…用事があって呼んだんじゃないなら、戻るぞ」


見計らって、少し砕けた口調でソファへと身を横たえるを見下ろす。
彼女は日番谷が気安い調子で話しかけてくる時の、緩んだ頬やちょっと生意気な目元が気に入っているので、特に気を悪くした風もなく ころん と身体を仰向けた。
吹き抜けの見慣れた高い天井に、見慣れたステンドグラス。


?」


ひょこりと覗き込んでくる幼馴染の専属執事に緩やかに微笑んで見せながら「爪、」と短く呟く。


「あ?」
「爪って言ったの、つ・め」


見慣れた白い天井に右手をかざして見せると、彼は意味が分からないと言うように肩を竦めて見せた。
そうしてから、ちらりと庭の薔薇達へと目を遣る。


「塗って。薄いピンクがいい」


日番谷の意識を引き戻すような強い口調で言い、ぱたりと無気力にかざした手を下ろす。
再びご機嫌斜めになりつつある彼女に胸中で浅く溜息を吐き出しながら手袋を外し、先程 剪定鋏を置いたサイドテーブルの上に放る。
今朝方 着替えを手伝った侍女が整えたのであろう、整然と小物の置かれた鏡台へと歩み寄り、指定された色のネイルカラーを手に取って戻った。


「左手からで良いですか?」


問いながらソファの側へと片膝をつき、薄ピンクの液体の入った小瓶の蓋をひねった。
ゆっくりと、控えめなシンナーの匂いが広がる。


「失礼します」


待っても答えは返って来ず、彼女はぼんやりと不機嫌に天井を見つめているだけなので、仕方なく左手へと手を伸ばす。
手首を支えながら、親指、人差指と筆先で撫でていく。

丁寧に整えられ 形の良い、薄紅色の彼女の爪はわざわざ色など塗らなくても可愛らしい。
白く、健康的な冷たさのある肌の柔らかさにとても良く似合っている。

薬指に珊瑚の欠片が混ざった薄いピンク色を塗りながら、彼は緩い瞬きを数回 繰り返した。
こうして彼女に触れる事は珍しいことでも何でもないのに、その白さや柔らかさに 何故か少し戸惑う。

はずっと外で日に当たっていたせいでしっとりと温かい日番谷の手の感触と、それに反するようにネイルカラー独特のひんやりとした感触のコントラストに暫らく浸っていた。
ふ と、吐き出される浅い溜息に似た呼吸を指先に感じて、天井から彼へと視線を移す。

不慣れとも手慣れたとも言い難い手つきで、左手の小指に取り掛かり始めた。
小指の爪先に、ネイルカラー独特のひんやりとした感触。



「手、震えてる」



揶揄するように ぽつり と言うと、一瞬だけ動きを止めた彼の睫毛がそっと俯いた。


何も言わず作業を再開する彼の 微かに、微かに震える手の感触へと神経をそばだてながら
薔薇の棘を摘み切る時にも その手は震えるのだろうか、と ぼんやり思う。




( 20081118 | presented by coma | write for Project Butler )