鳥も囀らない真夜中の庭園はただ闇が広がるばかりで、月光に照らされた木々の影が恐ろしい化け物のようだ。

 なんて、良く出来た御伽噺の冒頭文みたいなことを考えた自分を鼻で笑い飛ばした。なんて馬鹿馬鹿しいの。暗闇を背景にした大きな窓硝子に映るわたしの顔は、ちゃんと笑みを浮かべている。子供染みた妄想も臆病さも、自室の枕の下に捨て置いてきた。今のわたしは、ひとりのレディ。そう自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、その扉を見上げた。この向こうにいる彼に、今夜こそ認めさせてやる。わたしは、もう、子供じゃないんだから。

 気合い十分で鳴らしたノックは勢い余って、思った以上に大きな音がした。此処が廊下である以上、それも仕方の無いことなのかもしれない。狭い通路に大理石の床では、音も反響しやすい。

 扉の向こうの音に、意識を傾けてみる。暫しの沈黙、それから足音。真夜中の訪問者に対しても落ち着き払ったその足音は実に彼らしくて、自然と笑みが零れた。これで、扉の前に立っているのがわたしじゃなくてジェイソンなんかだったりしたら彼はどう反応するのかしら。ニッコリ笑って室内に招き入れて、香りの良いグリーンティーでも差し出したり?…ありえなくは、無いわね。だって、良くも悪くも彼は浦原喜助だもの。

 ドアノブの下がる音にわたしの肩が震えてしまったのは、紛れも無く条件反射だ。別に、びっくりした訳じゃない。


「………おや?どうしたんスか、こんな時間に」


 室内の灯りと一緒に姿を見せた喜助はあたしを眺めて瞬きを二度、三度。それからきょとりと瞳を丸めたかと思えば、壊れ物を眺めるように優しく目を細めた。それからその薄紅色の唇をそっと開いたかと思えばそこから溢れたのは小さな子供を扱うような、柔らかで甘い声。けれど見上げた彼の瞳は声とは対照的に冷たさを孕んだ翡翠色をしていて、確かに唇は弧を描いているのに笑っているようには見えなかった。毎日見ている筈の彼の表情なのに、綺麗で、寒気がした。時間帯が違うだけで、こうも違って見えるものなのだろうか。いつもの喜助の笑みは、もう少しわたしをからかうようなものだった筈、なのに。

 わたしはいたたまれなくなって、視線を一度彼の瞳から逸らして足元で揺れる影へと逃がすことにした。視神経が安らぐような心地がする。暗い廊下を足音を忍ばせて歩いてきたわたしには、扉の隙間から溢れる光は眩しすぎたのだ。


「珍しいっスねぇ。貴女が、こんな時間に起きてるなんて」


 呆れたような溜息を吐きながら、喜助は懐中時計を取り出してカシャリと開いた。年代物らしいそれは、開く度に不愉快な金属音を立てる。そんなの涅に直して貰えばいいじゃない、とはわたしも言うのだけれど、そんな時決まって喜助は曖昧に笑って頷くだけ。面倒臭がりなのか、自分のことは後回しにするタイプなのか。幼い頃から傍にいるけれど、わたしには未だにこの男が分からない。ほら、だって、喜助のこんなにも意地悪な笑みをわたしは知らないもの。喜助は懐中時計をわたしに示すように掲げて、吐息にも似た笑みをそっと零した。翡翠色が微かに揺らめく。その瞳に映るわたしは、きっとひどい顔をしている。


「…懐中時計、ね」
「ええ、懐中時計っス。…文字盤は、読めますね?」
「……2時、少し過ぎよ」
「そう、正解。もう寝なきゃいけない時間はとっくに過ぎてますよン?お嬢サマ」



 わざとらしくわたしをお嬢様呼びしながら、喜助は懐中時計を閉じた。ぱちん、という小気味のいい金属音が暗い廊下にひどく響いた、気がした。いつもならここで素直に頷くのがお嬢様だけれど、今日はそうもいかない。持てる限りの勇気を寄せ集めて、逸らした視線をもう一度喜助の翡翠色の瞳へと据えた。喜助の瞳が、再びそっと細められる。


「何か、アタシに御用でも?」


 彼の声に挑発めいた色彩を感じたのは、きっと気のせいじゃない。


「…目が覚めてしまったものだから、少し散歩をしていたの」
「それで、アタシの所へ?」


 
 必死に紡いだ言葉をすぐに切り返されてしまって、わたしはただ頷くしかなかった。喜助は意味深長に、へーえ?なんて納得してるんだかしてないんだか分からない相槌を返しながらわたしを嘗めるように見た。いたたまれなさが、今度は明確に気まずさへと色を変えていく。奇妙な沈黙が、わたしと喜助の間に下りてきた。喜助の視線はわたしを観察しているようでいて責めているような、妙な威圧感を孕んでいる。ああもう、だったら声を荒げて馬鹿なことしてないで早く寝なさいと怒られた方が数倍マシだわ!結局耐え切れなくなったわたしが、その沈黙をやぶることとなる。静かに息を吸うと、喜助は小首を傾げた。金色に近い色をした喜助の髪がゆれて輝いて、きれいだと思った。


「ねぇ、喜助。子ども扱いはもうやめて?わたしはもう、子供じゃないの」
「おやおや、何を言い出すかと思えば…」
「まじめに聞いてよ。わたしはもう、子供じゃないと言ってるの」



 たった二言三言しか喋っていないのに、不自然なほどの息苦しさを胸の奥に覚えた。多分これは、緊張感とか気まずさとか、そういった類のもののせいじゃない。わたしの言葉を聞いて、余裕たっぷりに深められた喜助の笑みがあまりにも綺麗で残酷だったせいだ。きっと喜助はこの夜にわたしがこうして訪れることを知っていて、わたしの言いたいことにも最初から気が付いていたんだ。いつだってそう、わたしは喜助の掌の上から出ることが出来ない。


「そーっスねぇ…お嬢サマも、もう十分にレディとして認められるべき歳だ」


 喜助は溜息混じりにそう言って、私に向かってそっと右手を伸ばした。冷たい指先が、わたしの熱を孕んだ頬へと撫でるように触れる。まるで猫でも弄ぶようにわたしの頬を撫でる喜助の指は薄暗い照明の中際立って白くて、触れれば割れてしまいそうだとさえ思った。実際、彼の指を折るなんてどこぞのマフィアにも出来やしないのだろうけれど。


「イイでしょう、認めてあげましょ。その代わり、ひとつ条件があります」


 彼の右掌が頬の上で広がって、私の左頬を包んだ。その冷たさに思わず目を伏せると、わたしの唇に軽く乗せられた彼の親指が視界に入った。それが退いたと思えば、今度は視界全体に影が掛かる。唇に触れる熱を期待して、わたしは目を閉じた。予想通りに唇に降りてきた柔らかな熱は、予想を裏切ってわたしの唇を軽くざらりと嘗めていく。けれど、喜助の吐息はまだ離れない。どうせ、またすぐに口付けるつもりなのだろう。目を開けばきっと喜助の綺麗な目がすぐそこにあって余計に恥ずかしくなるだけだから、わたしは目を閉じたままで喜助が少し微笑むのを空気で感じていた。


「ボクのことも、執事じゃなくて男として認めて下さい」




貴方に認めて貰いたい
(ほら、きみのほうからふみこんできた。いいこだ、おいで。)









(Project Butler様への提出作品!すごい楽しかったです、本当にありがとうございました!//2008.11.11)

(喜助さんの一人称がアタシからボクに変化するのは仕様です。わかりづらっ!\(^O^)/)