―――Death of a certain violet. ―――


いやいや、もうちょっと一緒にいてくれてもいいじゃん?
スミレの花の砂糖漬け


 
 ティーカップは18世紀初頭に作られたアンティーク。
施されたふち飾りは繊細かつ優美。カップ全体にワイルドローズと野兎の意匠。
飛び跳ねる小ウサギが重厚な卓の上で、愛らしさを振りまいていた。
ティーカップにソーサー、ティーポット。
満たされた液体は、夕陽色に染まった瑪瑙と琥珀を溶かし注ぎ入れた透明感とつやがある。
「今日の茶葉は随分と美しい色を生むのね」
香りは言わずもがな、極上品である。
 
 「先日旦那様が、現世でお嬢様のために買い求めた品だそうで」
スリランカの山岳地域で買い付けた品と伺っております。
さり気ない仕草で空いてしまったカップに彼が紅茶を注ぐ。
「なるほど、確かに英国のものとは違うわね。まるで彼の国の夕日や宝石が溶けているようだわ」
控えめな薄い蒸気と表面でおどるミストのダンスは見ていて飽きない。
たくさんの小さなケーキたちには目もくれず、
私はお気に入りの菓子を目線一つで彼にいいつける。
 
 「いけませんよ、誰が見ているとも知れませんのに」
心底困ったあなたの顔が本当の一番の大好物だってあなたしったらどんな顔するかしら。
怒る?あきれる?それともやっぱり困っちゃうのかしら?
「ふふふ、きっと私くらいね、今や副隊長の席にある貴方に
こんな無粋な真似や振る舞いができるのは」
一瞬、彼の手が止まって少し動揺したのがわかった。
 
 「知っているわよ。おめでとう」
この家にイヅルが仕えるようになったのはまだ彼が年端も行かぬ、
身の丈などは今の私の腰元ほどしかない、幼い時分だったと記憶している。
彼の父母は代々家に仕える貴族。父母同様に彼もまたこの家にその身ごと縛られ、
そうしてこの家の中で朽ちていく筈だった。
が、彼にはたぐいまれなる才覚がありの父の勧めもあって、真央霊術院に通っていたのだ。
院生時代は書生としてこの家で勉学に努めながら、選抜クラスに籍を置いていたイヅル。
 
 「もったいないお言葉にございます。
旦那様と、お城様にはとてもよくして頂きました。」
確かに破格の扱いだった。だがそれはあの人のよい顔をして大変な策謀家である父の
“なにかしら”の一手でしかない。
副隊長に大恩をうまうまと被らせ、さぞかし父はしたり顔であろう。
 
 「本当におめでたい事ね、イヅル」
戸棚に隠しておいたウィスキーの小瓶から数滴、雫をたらし変化した香りを味わう。
「なぁに?はしたなかったかしら。あなたの入れるお茶への冒涜だったわね」
イヅルはただ何も言わず、小さなソーサーに私の好物を添えた。
「あら、タチボミスミレ・・・薄い夕暮れの色ね・・・この風合い大好きよ」
悪食と言われようと止められないのがこの性癖だ。
「あなたがこの家に来れなくなると、このスミレも食べ収めかしらね」
 
 
スミレの花の砂糖漬け。
 
 
 イヅルだけが知る私が何より好む、甘い菓子の名だ。
野に咲くすみれを砂糖でそのまま閉じ込めただけ。ただの甘い砂糖漬け。
幼い日、困惑する彼と摘んだスミレの可憐さ、屋敷の裏庭で籐カゴいっぱいに
なるまで二人で拾った、美しい思い出。
薔薇の砂糖漬けを愛する人は多いけど、私はバラを食べたいとは思わなかった。
食べることでその花の生気を得られるならば、
ずっと、この野に咲くすみれの花のように可憐な少女のままでいたい。
におい立つような大人の女性になどなりたくはなかった。
 
 「いつでも様のためならお持ちいたします」
静かな声に私はゆっくりと首を振った。
「そんなに楽なものではないでしょう、死神の仕事は」
側仕えとして、籍を置くものの彼が私のもとで奉仕する時間は
時がたつにつれ、彼が死神として名を馳せるにつれ短くなっていた。
幼い感傷と淡い想いの象徴に別れを告げる日はもうそこまで来ているのだ。
口に含むと、ゆっくりと口腔に甘みが広がってゆく。
この花を食べ続けていれば、少女のままで、あなたとずっといられる気がしていた。
 
 「儚い夢ね」
瞼の奥に困り顔のイヅルが揺れる。
嚥下したスミレで広がる少女の気配を消すように、できるだけ艶っぽくほほ笑んだ。
「おいしかったわ、またあなたの入れるお茶が飲みたいものね」
いつの間に私たちの距離はこんなに開いてしまったのだろう。
初めて入れてくれた紅茶の味をまだ覚えている。
少し熱くて、せっかくの香りも味も台無しのあなたの精一杯。
 
 まだ蝶ネクタイにも、燕尾服にも着られていたころのあの味。
薄い蜂蜜色の髪、うつむきがちな顔、それから途方に暮れるまなざしは
今も変わることはないのに。
「あぁ、贅沢な時間ねぇ」
後何度、彼とこんな時間を持てるだろう。
先日、父の決めた婚家へと嫁いでいった姉の横顔を思い出す。
たぶん贅沢するには、財布だけでは足りないことを、貴族たちは知っている。
私の贅沢は何かと問われたら、真っ先に思いつくのがイヅルだ。
私の唯一、この生でずっと持ち続けていた、そばに置いておきたいものが、彼だ。
 
 他家に男の使用人など連れていけるはずもない。
それに、彼はただの使用人ではなくなってしまった。
父の一手のために、私は彼と一緒になれることなどないだろう。
そんなこと、ずっと昔から承知していることだった。
 
 この生活がかごの鳥のようだとしても、あなたがいるなら、それでよかった。
見つめていた先の紅茶の湯気はいつの間にか消え、さめきったティーカップが
静かに二人の間に横たわる。
沈黙を破る小さな音は窓辺からやってきた。
「カタリ、カタリ」
窓辺を揺らすその先には一匹の蝶が舞っている。
 
 「あら、地獄蝶ね」
腰を上げるより先にイヅルが恭しく一礼して、控えめに窓をあける。
戸惑うこともなく悠然と邸内に入り込んだ黒い一葉はたがわずイヅルの指先に降り立った。
はたり、はたりと羽を幾度かはためかせると、また滑らかな動きで指先を離れて
窓辺から姿を消してしまった。
目の前で繰り広げられる、美しい情景に目を細めながら、この光景を
確かに焼き付けておこうと目を閉じる。
 
 「すみませんお嬢様、急な仕事が入ってしまいました。」
少し緊張した面持ち、おそらく非番の彼に連絡が来たということは
事態は重篤な状態に陥っているはずだ。
「入ってしまった・・・から何かしら?」
指先でスミレをつまんで口に運ぶ。
きっと今、私とっても意地悪な顔をしているわ。
「様・・・」
ほら、その顔よ、途方に暮れたその顔。私、あなたのその顔が好きなのよ。
一昔前に帰ったみたいで。
 
 「嘘よ、早くお行きなさい。後は控えている物にさせるから。」
冷たい紅茶でスミレを押し流した。
「申し訳ございません。終わり次第すぐに戻ります。」
「必要ないわ。口だけの約束など大嫌いだって、あなたも知っているでしょう」
あぁ、またそんな顔して、本当にどうしようもない人。
「眠くなったわ・・・あなた、いつまで私の部屋にとどまるつもり?」
小さくあくびして、軽くため息をつく。
こうでも言わないと、貴方出ていくこともできないんだから。
 
 私から、貴方に背を向けて。
もう駄々をこねていい歳ではないのだ。
 
「必ずまいります」
そう呟いてイヅルが頭を下げたのがわかった。
次の瞬間この部屋から彼は消えた。
振り向いてなどやるものか。
「約束は嫌いよ。待ってしまうから。」
だからせめて、せめて、ねえ。
 
 
 
いや、いや。と首を振って。
もうちょっと一緒にいてくれてもいいじゃない。って。そう思ったのよ。
 
 
 
 
 
彼が触れていたティーポットをひとなでして、最後の一口を飲みほした。
ガラスの小瓶に移されたスミレはそっと胸の内にしまって。
隠し所を欠いた、このスミレと同じ。
この胸のすみれが咲く場所を、私はずっと探している。 
 
 
 
了

あ     と     が    き
 
Project Butler様提出作品。ずいぶん提出が遅くなってしまいました・・・
文中のスミレの花の砂糖漬けは実在する紅茶の甘味料です。
通販もある。はず。
2009.03.01