最初の綻びは、取るに足らないようなごく小さな掻き傷のようなものだった

花の香に誘われ庭をそぞろ歩いている時、強い眼差しに晒されているような気配を覚え振り向くと
瀟洒に咲き誇る薔薇園の入り口に、古参の庭師と緋色の髪をした見慣れない使用人が佇んでいて
その使用人は、私の姿を認め静かに頭を垂れる隣の庭師を見習うように、ゆっくりと頭を下げると
瞬きをする間もないほどの短い時間を駆って、唇の片端を上げ白い歯を覗かせた。

その仕草があまりにも優美で流暢だった為かもしれない
束の間、その節度を越えた態度に咎を与えるためでなく、ただ惚けたように見つめ返していると
頭の片隅、記憶の引き出しに何かがつかえたような曖昧なもどかしさを覚え、小さく頭を傾げた。

「新しい庭師を雇ったの」控えめに背後に付き従うメイドに、一顧だにせずにつぶやくと
「神威さんですね、手先が器用で何かと重宝されているとか」微かに声音が艶めいているのは
神威という庭師が若く美しいからだろう、彼ならばメイドたちの関心を一手に引き受けるのに
そう時間は費やさなかったはずだ、あのサファイアのような瞳に見つめられたら、なす術もなく

ただの想像でしかないと言うのに、体を巡るその感触があまりにもリアル過ぎて寒気に襲われた
神威の瞳は確かに美しい青い色を湛えているけれど、どこか凄惨な香りを漂わせていた。


二度目の綻びは、やや唐突に訪れ、嵐のように通り過ぎたあとに何かを攫われた

お嬢様、本日からお嬢様付きの運転手をさせて頂くことになりました神威と申します」
「前の、運転手はどうしたの」
「体を壊してしまったとかで、急遽、私が仰せつかりました」

「御不満でしょうか」

バックミラー越しにそう問われれば、朝から些細なことで騒ぎ立てるのも大人気ないと思い
「いいえ、じゃあ学校へやって頂戴」シートに体を預けながらそうつぶやくと
「かしこまりました」この間のように唇の片端を上げたのが、気配で分かった。

窓に反射する光がプリズムのように多彩な色合いを放ち、その眩しさに思わず目を眇めた刹那
また強い視線が左腕の肘から指先へと滑り下りるのを感じ、顔を正面に戻すと

「5時にお迎えに上がります」
バックミラーに映る瞳の色が、海面から深海へと沈むように深い藍色へと変貌を遂げ

「早すぎるわ、今時小学生の門限でもそんな早い時間なんてないじゃない」
「良家の子女たる方が、陽が落ちて浮ついた街をうろうろなさるものではありませんよ」
「信じられないほど時代錯誤な意見ね、だけど私にも都合と言うものが」

「それでは、6時にいたしましょう、よろしいですね」

私の言葉を遮るように放たれた言葉は、慇懃さの中にも確固たる意志と倣岸さが秘められていて
黙って頷く自分に驚きながら、繰返し頭の中に点滅する警告と、纏わり付くような古色の既視感に
軽い恐慌をきたしそうになり、指が白くなるほどに、持っていた本の背表紙を握り締めた。


三度目の綻びは、もはや綻びではなく、そうそれは修復不可能なクレバスのように深い裂け目

薄闇の中をぬるい風が渡る、大きな天蓋つきのベッドの縁に腰を下ろす影と跪く影
跪く影が慈しむように、ゆっくりと、華奢な靴を脱がすと、片手を持ち上げ
そしていつものように唇の片端も持ち上げ、無防備な右足をそっとその掌の上に置いた。

「綺麗な足先ですね、なよやかで儚げで」

唇を甲に寄せ、その舌先が触れるか触れないかという距離で囁く声と
忍び漏れる吐息に指先をくすぐられ、熱に浮かされた私の脳内は思考能力を手放そうとしている。

「仕事に、戻りなさい」
「これが私の仕事です、お嬢様のお世話をし、お嬢様を歓ばせ、時にはお嬢様を切なく啼かせて」

「そんなの、執事の仕事ではないわ」
「そうですね、以前の方には向いていなかったかもしれません、何しろご高齢でしたから」

ラベンダー水で湿らせた真っ白なハンカチで、足の指を解すように清められながら、硬く目を瞑り
今は使われていない、曽祖父の書斎のマントルピースの上に置かれた一葉の写真を思い浮かべた。

「前の執事を、高齢呼ばわり出来るのかしら」

瞳を上げ、ゆっくりと唇に甘い毒のような笑みを浮かべた執事は
私の右手を取り、焦らすように視線を彷徨わせたあと、我が物顔で小指に濃厚な口付けを落とす

お嬢様が、いけないのですよ」
「私が、何をしたと言うの」
「埃に埋もれたあの部屋で、じっと私を見つめたから」

言葉と共に饗せられる淫靡な吐息が指先から肘、その先へと次第に距離を伸ばして


「俺はいつでも戻ってこれる、おまえがそう望むなら、どんなことをしても」


ふいの乱暴な言葉遣いに胸を突かれ、瞼を持ち上げると、目の前に膝立ちの捕食動物の姿があった
その瞳は、遥か昔の従者やメイドたちの集合写真の中で見たものと同じように鋭く静かに光り

「ねえ、刻んでおいてよ胸に、姿形が変わっても分かるから、何でもするよ」